大判例

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横浜地方裁判所 昭和38年(タ)59号 判決 1964年6月27日

原告 甲野太郎(仮名)

被告 甲野花子(仮名)

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は、原告の負担とする。

事実

≪省略≫

理由

≪証拠省略≫を綜合し、弁論の全趣旨に徴すれば次の事実が推認できる。

「(一) 原、被告の婚姻と子女の出生

原告と被告とは昭和九年春東京で媒酌人宮田某および荒木ひさの媒酌によりいわゆる見合結婚をし挙式の上原告の郷里○○県○○郡○○村で同棲し、昭和一一年一月一六日法律上正式の婚姻届を了し、両者の間には長男A(同年同月某日生、同年二月死亡)、二男B(昭和一二年二月一五日生)、長女C(昭和一四年四月一日生)および二女D(昭和一七年五月二九日生)の二男二女が出生した。

(二) 終戦前後の原、被告一家の生活

しかして、原、被告両名は昭和一七年にすでに上京し二男および長女と共に東京で同居生活し当時原告は日本光学に鍛治工として勤務していたところ同年六月末又は七月初旬頃被告は子宮癌に罹り東京都港区芝白金町の某病院にて手術を受け約一ヶ月間入院した。その後昭和一九年二、三月頃原告はその勤務先の日本光学の分室が長野県に開設されたことからここに転勤を命じられたので被告および子女を伴い一家を挙げて長野県に移住したところ、同年六月頃軍隊の召集を受け松本の連隊に入隊し六ないし八ヶ月後千葉に転属を命じられて軍務に服し昭和二〇年八月一五日の終戦に伴い復員の上一旦妻子の待つ長野県の住所に帰宅した。その間原告が軍務に服役中被告は長野県で子女を養育しつつ原告の留守を護つていた。ところが、原告の勤先の日本光学は終戦と共に解散してしまつたので、原告は職を失い、かつ長野県の寒い気候風土が家族のためによくないので昭和二〇年九月又は一〇月に妻子を伴つてここを引揚げて郷里の○○県○○町の原告の母の許に居住するに至つたが、ここには原告の兄がその妻子と共に同居しており嫂と被告との間が円満を欠いたため被告は昭和二一年二、三月頃二女Dを伴つて自分の出生場所である東京都京橋区佃島町にいる被告の叔母の許に世話になり稼ぐと共に原告は○○町に止つて二男および長女の面倒をみていたが、しばらくして被告が原告を迎えに来たので原告は二男と長女を自分の母親方に託して上京し被告および二女と同居して右東京佃島の被告の叔母方で世話になり昭和二三年新たに石川島播磨重工業に就職した(その頃千葉県に残してきた二男、長女は時折東京の両親や妹の許に遊びに来ていた。)が、同年五月被告は肺結核に罹つて千葉県の市川病院に入院して約二年間に及びその間原告は男手一つで親戚の手をかりつつ四人の子女の養育に当つたが幸いに昭和二五年五月被告は退院して佃島の原告ら家族の許に戻り一家揃つて生活することができるようになつたが、被告の右入院の前後に亘り原告は被告の健康の保持増進のために医師の診断処方によることなく単に薬局に相談して自からホルモン剤等の注射を被告に継続施用してきたためか却つて被告の頭が変になり同年一一月中旬過のある日の午後二、三時頃被告は突如原告の勤務先に浴衣がけのまま飛込んで来て原告の顔をみるなり「よかつたな」と言つただけで沈黙しつづいてうわ言のようなことを言い出したので原告は上役の注意で早速被告を家に連れ戻し種々看病したがうわ言をいうのみの日が四日間位つづいたので薬局に相談したら日大病院に連れてゆくよう指示されたのでそこへ伴つて医師の診断を受けたところ分裂症の疑があるから入院させよといわれ同病院に二ヶ月位入院の上医師の許可を受け一応退院の上一〇日間位家にいたが再び容態が変になつたため再び右病院に入院し電気療法を受けて再び退院したがそれも一週間位で又同病院に入院したところ院長から神経科専門の病院である鳥山病院に入院して診療を受けるよう指示されたので同病院に入院したが本人が帰宅を切望するので二ヶ月位で担当医師の許可に因り退院帰宅し在宅約一週間ないし一ヶ月に及んだがその間被告は、それがいかなる動機ないし原因によるか明かではないが、原告の眼をついたり外に出て大声で騒いだり夜間知人の家に上りこんで寝たりするので原告は警察を通じ民生委員に手続をとつてもらつて昭和二七年二月一五日精神科専門の慈雲堂病院に入院し昭和三七年五月同病院を退院するまでひきつづき約一〇年間、なお当初日大病院に入院した時より数えれば多少の断切はあつたが約一二年間、更に被告が肺結核で市川病院に入院していた約二年の期間を算入すれば被告は終戦後実に約一四年間の長期間に亘り病院生活を送つてきたものであつて、その反面この長期間原告は親戚の手助をえて子女を養育し、すでに長女はこれを他に嫁せしめたものである。そして、被告は、日大病院、鳥山病院および慈雲堂病院においてはいずれも電気シヨツク療法を受け、(ただし、前記の如く原告が被告にホルモン剤等の薬剤の注射を継続使用した事実は最後の慈雲堂病院の担当医師福永医師の問診に答えて打開けたが、他の病院では話さなかつた。)結局容態が快方に向つたので慈雲堂病院長の許可により退院し、帰宅を切望したが、原告は、被告の過去の所為の記憶と容態の変化に対する危惧のほか現在二男Bおよび二女Dと一緒に居住、生活している家が勤務先の社宅であつて被告の過去の病状を知つている勤務先は被告がこの社宅に入居することを拒んでいるという事情もあり、その同居を拒否したので、被告はやむなく慈雲堂病院長の好意により同病院の近くで歯科越田医院を開業している右慈雲堂病院長の令嬢の夫一家の女中として住込み生活をしてきたが、その後原告の友人の世話で被告肩書住所の牛乳販売業高橋ツネ(未亡人)方に住込で雇われ雇人等の食事、洗濯等の仕事を担当しながら牛乳の店頭販売を手伝い食事付で月給五、〇〇〇円を受けて現在に至つておりその病状はむしろ回復している。なお、被告の長期間に亘る入院中一、二回二男Bが見舞に訪れ又二女Dからは同女の中学三年の頃「高校へ行きたかつたが家庭の事情で行かれない、早く病院から戻つてきてほしい。」旨の手紙が来たことがあるがそのほかには原告は固より子女と面会文通はなく被告は長女Cの結婚の事実も知らなかつた。他方、原告は被告の入院中その入院費を負担してきたほか被告が越田病院に女中として世話になつていた間のうち一〇ヶ月間毎月三、〇〇〇円の送金をしていた。

(三) 原、被告の性格および生活態度

被告は原告と婚姻直後から多少嫉妬心強く原告が近所の主婦や子供の頃から知合の女性と話を交すことをも好まず、別段原告が女遊をするわけでもないことを知りながらもなお、夫たる原告に対する独占欲が異常で、それが昂じて後に日常生活においてヒステリツクな行状を露呈するに至つたが原告は当初から被告のこのような性格ないし素質を知りつつも将来それが癒るものと期待して正式の婚姻をしたものであり、他面原告はいわゆる外面がよかつたが余り家庭的でなく当初子女の世話等は一切被告に任せきりであつたばかりでなく昭和一三年の秋頃被告が長女Cを懐胎しつわりのあつた頃から競馬等の勝負事にこり、婚姻当時月給袋をそのまま被告に渡していたのに次第に渡さないようになり、被告が病気で臥つている時等は家事をやつてくれたこともあつたが、勝負事のため外泊も多くなり昭和一四年頃には被告に金五円を渡したまま家をとび出して三日も四日も帰宅せず行先も判らなかつたこともあり、又、二女Dが被告の腹にあつた当時も被告は生活費に困つたことがあり、それこれで当時被告は兄や仲人から離婚をすすめられたが子供らのためにこれを耐え忍んで我慢してきたという状態であつた。

(四) 原、被告および子女の現在の心境

原告としては、長年月の間被告の入院により一男二女を養育し来りその上被告の入院治療費を負担し同女の退院後一〇ヶ月間毎月三、〇〇〇円の送金をしたこと、その間実質上の夫婦共同生活がなかつたこと、かつて眼を突かれたという悪夢のような憶出および今後の被告の容態の再悪化、住居としての社宅の件等から神経も疲れもはやこれ以上被告と婚姻を継続したくないという心境にある。勿論、原告(五三年、明治四四年六月八日生)は目下将来再婚する意思はない。

被告としては、かつての苦しい生活を只管子女のために耐えぬいてきて、その後長期の病院生活に入つて幸に快方に向つて退院し原告と別居して生活しているがすでに四六年に達し(大正七年五月七日生)何とかして子供と一しよに暮したいが、原告が被告を扶養することができなければ原告や子女からの仕送りを受けず夫たる原告とも別居したまま現在の状態を維持して行つてもよいという心境にある。

二男B(現在独身、会社員)および長女C(すでに他に嫁している。)の心境は不明であるが、婚姻を間近に控えた二女D(未婚、家事手伝中)としてはこの際原、被告が離婚するかこのまま婚姻を継続するか、どちらか一方にはつきりケジメをつけてほしいという心境にある。

(五) 家庭裁判所の調停の不成立

因みに、原告は昭和三七年被告を相手方として東京家庭裁判所に夫婦関係調停の申立をした(同庁同年(家イ)第一二八号事件)が、当時被告は入院中で最後の期日である同年六月一四日午後一時の期日に被告は看護婦に同伴されて唯一回家庭裁判所に出頭したが合意成立の見込なきに因り右調停は不成立となり事件は終了した。」

以上の事実が推認され、この認定に牴触する前顕証人および原、被告各本人の供述部分は措信しがたく、他に右認定を妨げる証拠はない。

二 右認定の事実関係を仔細に検討勘案するに、なるほど原、被告間の夫婦としての婚姻関係は終戦後の昭和二五年一一月中旬頃から現在に至るまでの約一三年余の長期間に亘りその実体を失い単なる形骸のみを止めているにすぎないことが判るが、これに先立ち、被告が昭和九年春事実上の婚姻生活を始め両者の間に二男二女を儲け、世情の変遷に伴いその家庭生活には迂余曲折があり亦原、被告双方にそれぞれ長短があつたにせよ、昭和二五年一一月中旬頃被告が奇矯な所為に出で病院生活を開始するまでの間には約一六年余のより長期の実体を伴う夫婦家庭生活がともかくも厳存しておつたものであり、しかも被告が肉体的精神的に異変を生じたことの一因は夫たる原告の医師の指示処方によらない素人の薬剤投与等にあつたことが察知し得られるのみでなく、現在すでに原告は五三才、被告は四六才の年齢に達しいずれも人生の後半を老境に向つて歩みつつありその間には成人した生存子女として二男B(独身、会社員)、長女C(他に婚嫁)および二女D(未婚、家事手伝中)があり、その上被告の病状は快方に向つているというよりもむしろ回復していること、ならびに原、被告および二女Dの現在の心境等々にかんがみれば、原、被告は過去を回顧することのみに捉われず一家のため余世と子女の幸福に深く思を到し将来の展望のうちに婚姻生活の実体を取り戻すべきでありこのことは必ずしも不可能とは考えられないから、結局本件にあつては民法第七百七十条第一項第五号所定の婚姻を継続し難い重大な事由という裁判上の離婚原因があると解することはできない。

(因みに、原告は目下社宅等の関係からも少くとも被告と同居することを欲しないが、この点については同居義務は強制執行によつて実現しえないのみでなく、被告も亦離婚を欲しない以上一家のため現状を維持してあえて同居を求めることなく然るべき時期まで原告と別居生活を送るべきであり、又、扶養請求権はその処分が禁止されている(民法第八百八十一条)が被告は目下事実上原告及び子女の扶養を受けないでもよいと言つているのであるからこれ亦実際上原告の希望にそうものであつてあえて今後の婚姻継続の支障とはならない。)

三 よつて、原告の本件請求はこれを理由なきものとして棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 若尾元)

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